五條楽園って其の弐 |
- 111: 名前:T2投稿日:2002/07/20(土) 04:49
- 島原は、ここ見るといいかも。
http://www.asahi-net.or.jp/~nt6k-sghr/k_scene/shimabara/shimabara.htm [source] [check]
祇園や北野、そして五條楽園の前身である七條新地・五條橋下(はしした)などで
遊女屋営業が公的に認められたのは1790年(寛政2年)です。
七條新地の遊郭としての起こりは1717年(享保2年)、「煮売り屋」としての営業が
認められた際に、一軒あたり接客婦として酌婦二名と見習いさんを置いていたことが
分かっています。また五條橋下のほうは、1761年(宝暦11年)に北野上七軒の
真盛町から南京極町へ「茶屋株借受」という形で営業を開始したのが始まりとなっています。
一方、祇園の茶屋営業が公許されたのは1665年(寛文5年)、先斗町での料理店経営
許可が下りたのは1712年です。
寛政2年6月、寛政の改革によって唯一の公許遊郭である島原以外の新地等での売春行為が
一斉摘発され、殆どの遊女が島原に取り上げられました。明治5年に京都府が編纂した
「京都府下遊郭由緒」には、「祇園町同新地ヲ始茶屋株等隠売女千三百人余傾城町江婢ニ
差下相成所々之茶屋株一時被差止(中略)」とあります。
その数ヶ月後には、島原の遊女が出稼ぎという名目で新地に赴き、口銭を島原に上納する、
というシステムが構築されました。すなわち、幕府は全ての遊里を島原のコントロール下に
置いたわけです。この体制は、明治維新まで続けられました。
誤解を恐れずに言うなら、祇園も五條も、この時点で風俗営業のスタートラインを
横一線にされた、ということですね。
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